【公式】たくらふのブログ

嘘でも本当でもない夢現な日常ブログ

ある朝のできごと

プラットフォームに人だかりができていた。

エスカレーターを降りていく僕の耳に聞こえたのは、電車が遅延しているとのアナウンスだった。

 


その日は朝からイラついていた。

少し遅く起きてしまったことから始まり、自宅から駅までにある横断歩道の信号2つともに目の前で赤にされ足止めされた。

駆け足で駅まで急ぎ、いつもの電車にギリギリ間に合うことができたものの、乗り換えるために降り立った横浜線の電車は7分ほど遅れていた。

構内のアナウンスでは「お急ぎのところ電車が遅れまして、大変申し訳ございません」と何度も繰り返していた。出来るだけ申し訳なさそうな声で淡々と言われ続けると、とにかく謝ってるようにしか聞こえず、だんだんと腹が立ってくる。

プラットフォームで電車の到着を待つ人々の殆どがうつむきがちにスマホを見つめていた。アナウンスを聞いてるのかどうか、人々の顔からは何も伺い知ることはできない。無表情に画面を見つめる人だかりを見ていると、次に乗る電車の混雑具合を想起させ、乗る前からうんざりさせる。

遅延の原因は走行中の異音の調査のためらしかった。そのために駅間で電車は止まり、安全が確認できるまでは発車が見送られるという。

なんで石なんか置くんだ。監視カメラでもなんでも確認して犯人を絶対に捕まえろ。心の内で誰に向かってでもなく毒づく。

電車の遅れは10分を超えた。

スマホの画面に目をやると、いつもなら職場の最寄り駅についている時間になっている。

いつも決して遅刻しないような、あり過ぎるほどの余裕を持って家を出ている。駅に着いてからは赤い背景に黄色の文字でMと書かれた看板が目印のファストフード店で本を読みながら時間を潰す。

もうそんな時間は無いな、とふと思い、そんな時間が割と好きだったと気付く。

ちょうど半月前、今まで徒歩圏内だった場所から、電車で2回の乗り換えを要し通勤に30分程かかる職場へ異動になった。

決して通勤時間が増えるのは嫌ではなかった。

むしろ今まで徒歩圏内だったこともあり、性格上ギリギリまでだらけてしまう自分にとって、電車という時間にシビアで絶対服従の乗り物は、生活にメリハリを与える良いきっかけだった。

絶対的な基準があるということは、計画を立てるのに非常に便利だ。走ればギリギリ間に合うとかそんな曖昧さが通用しないことが、もう少し寝ていたいとかいう甘さを完全に退けた。

だからこそ。この遅れが腹立たしい。

電車は僕一人のために決して待つことはしない。あと一歩のところでその扉を問答無用で閉めるくせに、自分が遅れた時にはその利用者の全てを平気で待たせてしまう。

当たり前のことだが、そんな事が今日は無性に腹立たしく、イラついてしまう。ツイてないな、と思うのだ。

しばらくして、異音の原因は線路の上の置き石だったこと、向かい側の5番線の電車が先の発車になるとのアナウンスが入る。

今まで表情一つ変えずスマホを見つめていた人だかりは、まるでそのアナウンスを号令かのように群れをなして動き始める。

アナウンスを聞き逃したらしい若いOLや女子高生は何事かわからず、辺りをキョロキョロしながら長いものに巻かれるように群れに加わる。

 


僕は動かなかった。

走行中の異音の原因がわかったのなら、さほど時間を待たずして電車は動き始めるだろうし、あり過ぎるほどの余裕を持って家を出ているこちらとしては、別に20分くらい遅れても逆にちょうどいいくらいだからだった。

さっきまであった人だかりが向かい側の電車に乗り込むのが見える。

我先に乗り込み、やがて我先に降りるであろう他人の集団を見ていると、一種の異様さと孤独を感じずにいられなかった。

 


思いのほか早く電車は来た。

扉が開き、人が降りていく。降りる人が少なくなったのを見計らって乗り込む、スーツの40代くらいのメガネの男がいた。降車する人とぶつかりながら、それでも何も言わずに乗り込んでいく。

他人だから、二度と会わないから、だからそんな風に強引に、傲慢でいられるのだろう。

彼の気持ちは理解できる。一方で、降りる人がいなくなるまで、いつまでも乗り込まない目の前の大学生くらいの女に心で舌打ちをする。彼女を押しのけ電車に乗るほど、僕には根性がない。先のメガネの男は座って新聞を広げていた。

僕は次に乗り換える駅までずっと立っていた。

 


最後の乗り換えの電車を待つプラットフォームで、僕はその先頭に並ぶ事ができた。

ここから目的の駅までは一駅だが、なんだか疲れていて座りたかったので、ラッキーだ。

金属の車輪が線路の上をけたたましい音を立てながら転がり、電車は徐々にスピードを落として、やがて、止まった。

プシューという音共に扉は開き我先に駆け下りていく人だかりを待たずして、僕は電車に乗り込む。

人の隙間を縫うように進み、一つ空いた座席が目に入ると、そこ目掛けて歩調を早めた。

 


「あ」

 


思わず声が出る。

日に焼けて少し頬のこけた黒い髪の初老の男と、同じ席を同じタイミングで座ろうとしたのだ。

男は明らかに僕よりも顔のシワとシミが多い。ふた回りほど年上だろう。

お互いに察しあったように、またも同時に右手を相手に差し出し「どうぞ」と声には出さずに合図をする。

それが2回繰り返されたあと、面倒になったので何も言わずにその場を離れ、つり革を手に取った。

どうせ一駅だったし、座れなくても別になんてことはなかった。

人に親切にした、というよりは黙ってその場を離れただけだが、結果的に席を譲ることになったのだから、それはそれで悪い気分はしなかった。

車内は割に空いていたので、読みかけの本を取り出す。

いつもならマックで読んでいるはずだった。

その時間を奪われたことに、今になって少しムッとする。

そんな時間を取り戻すように、紐状の栞をたどり忙しくページをめくる。視線を9ポイントサイズの文字へとすべらせ始めた。

 


5分ほどして、目的地の駅名が自動音声で読み上げられる。

顔を上げ、窓の外をしばらく眺めていると、流れる景色はだんだんと速度を落とし始めた。

プシューという音と共に電車から降り、改札へ続く階段へと歩みを進める。

ポンポンと、後ろから左腕を軽く叩かれる。

突然のことで少し肩がすくみ上った。振り向くほんの0コンマ数秒の間に、職場の人か?と脳は思考する。

振り向き切った僕の目に入ったのは、日に焼けた少し頬のこけた黒髪の初老の男だった。

男は僕を一瞥し、右の手のひらをこちらに向けると首だけでお辞儀をした。

言葉にしてはいなかったが、「ありがとう」と確かにそう聞こえた気がした。

僕は彼に会釈をして、階段を登り始める。

ふと、暖かな気持ちが胸に広がるのを感じる。

 


(そういえば、)

 


鼻をふんっと鳴らして口角を上げてみる。

 


置き石で大事にならずに済んで良かったな)

 


窮屈な鉄の箱にすし詰めにされていただろう、他人の軍勢の無事に今更ながら安堵する。

我ながら単純な人間だなと思うが、気持ちの良い朝に違いなかった。

 


6月にしては少し涼しい風が、満員に揺られた体に爽やかに吹き付けた。