帯に短し恋せよ長瀬
人には習慣というものがある。
例えば、寝る前に水を飲んでトイレに行くとか。
例えば、朝起きて、牛連れて、2時間ちょっとの散歩道、という具合に。
例えば、誰か1人の命と引き換えに世界を救えるとして、誰かが名乗り出るのを待っていたりだ。
私にも習慣がある。
それは週に3回の筋力トレーニングだ。
トレーニングといっても、ジムに通ってはいない。
自宅でプッシュアップバーを使って、腕立て伏せをするだけだ。
20回を3セット。今年の4月から始めて、はや半年になる。
その甲斐あってかはわからないが、健康診断では異常なしだった。
そしてこの日はトレーニングをする日だった。
トレーニングの前は憂鬱だ。このメニューは私にはまだ重い。
3セット目を終える頃には、腕は震え、上げることも億劫になる程だ。
しかし、達成した喜びはいつも胸に充足をくれる。
この日は、なにかいつもと違う気がしていた。
自分には、まだ何か秘めた力があるような、そんな気がしていたのだ。
腕は肩幅よりもやや開き、バーはハの字に設置して、踵、ふくらはぎ、腿、背中、頭が真っ直ぐになるように構える。
そしていつものように、1セット目を始める。
「1」
これが、伝説の始まりだった。
今日は調子が良い。
1セット目でも、日によっては5回もすればひと呼吸おくこともある私だったが、この日は違った。
15回を超えても、腕に疲労はなく息切れさえしない。
「20」
気が付けば軽く20回を終えていたのだった。
このままいけるところまでやってみよう、と、私はカウントを始めた。
9月とはいえ、まだまだ残暑が厳しい時期だが、不思議と汗はかかなかった。
まっすぐの姿勢のまま、2秒かけて、胸が床につくギリギリのところまで沈める。
そこから1秒かけて、腕を伸ばしきるまで体を起こす。この繰り返しである。
「50」
私は、まだまだ続けられると確信していた。
何故なら、すでにこの時、51回目をカウントしていたのだから。
時間を忘れ、ただひたすらに腕立て伏せを続ける。
すでにその回数は、自身の予想をはるかに上回っていた。
「13,025」
肉体には未だ変化はなく、少しだけ額には汗が滲み始めていた。
しかし、気力は少しも衰えることなく、今始めたばかりのように、体を沈めては、起こしていた。
ふと、部屋の掛け時計を見る。
どうやら開始から1時間が過ぎていたようだ。
頭は冷静だった。
(待てよ?)
2秒かけて状態を沈め、1秒で起き上がる、つまり3秒かけて1回を行う計算だとすれば、1分で20回、1時間経ったのであれば1200回であるはずだ。
しかし、今私がカウントしているのは、
「15001」
やはりだ。
3秒に1回というペースのつもりでやってはいたが、体感と実時間の差があったのだ。
驚きというよりは、この時間と回数の乖離の理由を見つけたことへの納得が大きかった。
そして、20,000回を超えた。
「795,018,990」
私は、何かを数える時に、この数字に至ることが初めてだった。
億だ。ついに私は、億を超えたのだ。
胸中にある思いが湧き上がる。
(これは、とんでもないことになるぞ)
このまま腕立て伏せを続ければ、私の体にかかる負荷は計り知れない。
流石に、汗がポタリと落ちる。
いや、私の目にそう見えていただけで、トレーニングルームの窓は結露して、真っ白になっていた。
私の体は異常に熱を発しており、汗は噴き出た瞬間蒸発し湯気となって部屋を埋め尽くしていた。
時計もくもっていたが、かろうじて時間を読むことができた。
開始からすでに5時間を超えていた。
私のトレーニングはとどまることを知らなかった。
異常なスピードで、そして異常なまでの持久力で腕立て伏せを繰り返していた。
「700垓1,498京770兆4億9,999万23」
この数字を、私は実際口にしてはいない。これを言い切るまでに、京の位がひとつ上がるほどのスピードだから、口で言う意味がないのだ。
知らないうちに、時計は元の場所にはなかった。
部屋の窓ガラスはくもりが取れたのかと、私は思ったが、すぐに違うと察した。
割れていたのだ。この部屋のどこにも見当たらない時計が突き破ったのだろう。
私を中心に、ある気流が発生しており、小さな竜巻が起こっている。
そのおかげか、体は先ほどよりも火照りが取れていた。
「9阿僧祇(あそうぎ)2,786恒河沙(ごうがしゃ)809澗8垓98兆3」
すでに、床は崩れ落ちていた。私の部屋は2階にあるのだが、1階の他人の部屋にいた。
いや、他人の部屋だった場所に、と言った方が正確だろう。
そしてもっというのであれば、私が腕立て伏せをしているこの場所は、私が住んでいたアパートが“あった場所”だ。
私の起こした小さな竜巻は、やがて大きなうねりを伴って、ハリケーンとなった。
ハリケーンは私の部屋もろともアパートを吹き飛ばした。
それでも私は腕立て伏せを、やめなかった。
78那由多(なゆた)を超えたあたりだろうか。
時計を見失ってから、時間がどのくらい過ぎたのかわからなくなったいた。
ハリケーンは日本中を飲み込み、諸外国に甚大な津波被害をもたらした。
私の体は赤く発光し始めた。皮膚が高温になり、上気していた。
そして高熱は青白く光り、しばらくすると金色に輝き始めた。
9,999不可思議(ふかしぎ)を超えた時、私にはある目標ができた。
時折、様子を見るように訪れていたヘリコプターも、もう何年も訪れなくなった頃だった。
誰しもが、子供の頃考えたのではないだろうか。
「一番大きい数ってなんだ!」
そう。10の68乗、無量大数だ。
あらゆる単位を超えてきた。汗は高熱の蒸気となり、草木を枯らし尽くした。
体の上下運動により発生した大気の流れは、竜巻となり、そしてハリケーンとかし、私を中心とする半径1,000キロ圏内を廃墟と化した。
発熱した体は金色に輝き始め、アスファルトを焼き、あたり一帯を砂漠化させた。
私以外の人間が、この地球にどれだけいるかはわからない。
自分が何をしているのかさえ、不可思議の領域に入った時点でわからなくなっていた。
ただ、私はつぶやき続けた。
渇望するように、祈るように、そして、辿り着けるように。
「無量大数」と。
「9,999不可思議9,999那由多9,999阿僧祇9,999恒河沙9,999極9,999載9,999正9,999澗9,999溝9,999穣9,999秭9,999垓9,999京9,999兆9,999億9,999万9,999」
私は、すでに人間ではなくなったのかもしれない。
この数を数えているのは、果たしてトレーニングを始めたころの私なのだろうか。
しかし、積み重ねてきたこの数だけは、誰にも譲れない、まぎれもない軌跡だ。
やがて、この惑星は完全に荒廃し、私から発せられる熱によって気温が上昇。
海は干からび、砂と岩の星となった。しかしそれも数年の話。
下がることのない気温はやがて砂岩を焼き尽くし、赤黒く燃焼し始めた。
それは、形容するのならマグマである。
ぐつぐつと煮えたぎる真っ赤なカレーのようなマグマに、この星は覆い尽くされた。
やがて、この惑星を太陽と呼び、この惑星域を太陽系と呼ぶ一派が現れ始めた。
太陽を中心に一定の軌道を維持したまま回る衛星も、太陽光によって新たな命を芽生え始めた。
太陽系第三惑星、地球。
水と緑に囲まれた豊かな惑星だ。