マイノリティー
少数派。
多様化が進む中、少数派の意見が目に付くようになった。
主にSNSの普及で、自ら情報の発信者となることにより、かつては表に出ることのなかった情報が溢れている。
目に付く、という表現から察するに、私個人としてそのような少数派の意見に対し快く感じないことが多い。
なぜか。
押し付けがましいと感じてしまう、その感情の根源とはなにか。
それは私が常に自分の意見以外を否定し、我の意見を押し通すことのみに心血を注ぎ、それ叶わぬならば自ら引くからだ。
この姿勢に反する様態に、私は嫌悪を抱くのであった。
例えば、twitterでシール痕恐怖症なるものが反響を呼んでいた。
剥がし痕や、机や冷蔵庫にベタベタと貼ってあるシールについて、嫌悪感を催しひどい時は嘔吐する。
何故発信するのか。
それは自らの住む環境の改善のため、周知しておかなければ不利に生きることになるからだ。
しかし、だ。
どうしようもない。
どうしようもないのだ。
周知されたところで、そのようなマイノリティーに気を配り生きることは、できないのである。
こうした意見を見越してか、マイノリティーの発信によく見られる文言がある。
「どうかこういう人もいることを知ってほしい」
それが目的なのであれば、果たされる。
知った。
以上だ。
知らないのと知っているのとでは知識の有無で上下の関係が生まれる。
「そんなことも知らないのか」という具合にだ。
だとすれば、シール痕恐怖症なる人間がいるということを知っている、これは人間としてひとつ豊かになったことにもなる。
マイノリティーの周知。
これは人間として豊かになるための活動なのである。
その裏に潜む承認欲求が満たされることによる愉悦や珍しいことを知っている、持っていることに対する歪んだ誇りを感じ取ったとしても、それはマイノリティーの周知の大義をもってすれば甚だ些末な事に過ぎない。
私はそんな些末な事に対し、苛立ちや嫌悪を抱き、心を疲れさせることは愚かだと考える。
よって、マイノリティーの周知を許そう。
現場からは以上だ。