【劇場版】という響き
先日、遅ればせながらコードブルーの劇場版を観に行った。
志保がドラマの再放送を見ていたため、横でチラ見で内容はある程度わかっていた。
怪我人を搬送するのではなく、怪我人の元へ医者を運ぶドクターヘリ、そのヘリに乗って現場で人命救助に当たる医師「フライトドクター」の苦悩と成長を描く、メディカルヒューマンドラマというところか。
映画は、3シーズンに渡るドラマの延長といった感じで、見ていた人の方が楽しめる内容だ。
もちろん、映画の冒頭で「これまでのコードブルーは」と言って、「オレは高校生探偵工藤新一」ばりに紹介してくれるので、初めて見る方も安心して観られる。
映画自体は、4つか5つの物語が次々と起こり、感動とともに収束していく。
結婚間近の恋人の病気による離別、そして差し迫る死の前に2人が出した結論とは、とか、研修医の独り立ちとか、アル中の母親から逃げ出した娘の苦悩とか、脳死状態の息子が最後に残したドナーカードの意思表示に両親が下す決断とは、とか、やまぴーが感電するとか、まあたくさん事件が起きるわけだ。
エピソードごとに感涙の展開があり、劇場からは密かに鼻水をすする音が聞こえたりしていた。
かくいう私も、あまりの感涙の連続に耐えられない場面もあった。
しかし、詰め込み過ぎ感は否めない。
あと、結婚の話題が物語のベースとして流れている感も否めない。
別にいいのだけれど。
劇場版って、急に壮大なイメージがつく。
幼き頃、劇場版のアンパンマンの予告で「アンパンマン、死す」という文言が出てきて、幼心ながら煽り過ぎだろうと思ったこともあるが、それも劇場版だからいいかなってくらい、壮大になる。
そもそも劇場版ということは、劇場版じゃないシリーズが存在するという前提があり、それもまた劇場版を壮大なものにしている要因のひとつだろう。
なんにせよ、劇場版という響きには特別な何かがあることには違いない。
例に漏れず、このコードブルーも劇場版だ。
劇場版なのだから、ぜひ劇場でご覧ください。